イギリス人の道をおすすめする理由
フェロールからサンティアゴ・デ・コンポステーラまでの距離は120㎞。歴史や遺産が豊富なだけでなく、巡礼路の多くの行程で緑が多いのが特徴です。 フランス人の道のような巡礼路沿いの混雑もなくゆっくりとサンティアゴ巡礼 を楽しむことができます。 イギリス人の道には、出発点が異なる2つのルート があります。 フェロール から出発するオプションの他に、 コルーニャ市からのカミーノ も可能です。フェロールからの巡礼行程数が5つに対し、コルーニャからサンティアゴまでの行程数は3つです。最後の2行程は、フェロールからの道と合流します。
フェロールやコルーニャの都市部で標識が少なく分かりづらいという問題がありますが、平均して黄色の矢印やモホンと呼ばれる石の標識が十分に設置 されています。 宿泊施設に関しては、公共のアルベルゲ(巡礼宿)が5つと数が少なく、巡礼のピークシーズンにベッドを確保するのが難しくなっています。 ブルマで空きのベッドがない場合、オルデ市にある隣の村メソン・ド・ベント(Mesón do Vento)まで移動しなくてはなりませんが、 その他の場所では、プライベートの巡礼宿、ペンション、ホステルにホテルなどの民間の宿泊施設がベッド不足の問題を解消しています。
歴史
中世の時代、海を渡ってガリシアへ到着した外国船は、フェロールとコルーニャに入港し、ここからイギリス人の道が生まれました。 イギリスからガリシアへ積み荷を運ぶ船の中には、 イギリス人乗組員の他に、スコットランドやアイルランド、そしてスカンジナビア諸国など様々な国籍の人々が乗船しました。 ガリシアへ上陸すると、巡礼路沿いの町で商売をしながらサンティアゴを目指しました。 14世紀半ば、イギリスとガリシアの港町の間に定期航路が開かれると、外国にあるキリスト教聖地参拝を希望する人たちが多く乗船するようになりました。
道の名前の意味
貿易や巡礼などの理由でイギリスとガリシアの間に航路が開かれたことから イギリス人の道という名前がつきました。 当時の帆船は喫水が浅く、どこへでも航海できるという利点がありましたが、乗船した巡礼者はイギリス港で積まれた貿易用の商品とともに苦難に満ちた船旅を強いられました。 困難な航路を終え、陸路に入るとイギリス人の道は静かで安全なルートのため、わずか数日でサンティアゴへ到着できるというメリットがありました。 道で遭遇する泥棒から身を守りながらピレネー山脈を越えるだけで数週間かかったフランス人の道と比ると非需要に大きなメリットでした。
イギリス人はブリストル、ニューカッスル、ロンドン、サウサンプトンの港からガリシアへ向かい、お隣の国アイルランドの巡礼者は、ゴールウェイまたはダブリン港からガリシアへ向けて出発しました。 無事ガリシアへ上陸した巡礼者たちは、フランシスコ会やサンクティ・スピリトゥス会の修道院や救護院で庇護を受けました。
史料によると、11世紀に十字軍やテンプル騎士団 がエルサレムへ向かう途中にコルーニャへ入港し、サンティアゴへ巡礼し、聖地エルサレムまでの旅の安全祈願 をしました。 やがて、ヨーロッパ中の騎士団の間でサンティアゴ巡礼が習慣となり、ヤコブのご加護を求める騎士団の船がガリシア沿岸の港に入港するようになりました。
イギリス人の道の行程
行程
経路
Km
インフォメーション
行程1
フェロール(Ferrol) – ネダ(Neda)
15
行程1B
ア・コルーニャ(A Coruña) – ブルマ(Bruma)
33,6
行程 2
ネダ(Neda) – ポンテデウメ(Pontedeume)
16
行程3
ポンテデウメ(Pontedeume) – ベタンソス(Betanzos)
20,2
行程 4
ベタンソス(Betanzos) – ブルマ(Bruma)
27,8
行程 5
ブルマ(Bruma) – シグエイロ(Sigüeiro)
24
行程 6
シグエイロ(Sigüeiro) – サンティアゴ・デ・コンポステラ(Santiago de Compostela)
16,7
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ヘラクレスの塔
ローマ人がイベリア半島を征服した後の1世紀に建てられた灯台で、現役の灯台としては世界最古のもの。
サン・フェリペ城
海路から侵入する敵からフェロールの入り江を守るために、フェリペ2世治下の1557年に建てられたお城。
ポンテデウメ
昔、ガリシアの有力貴族アンドラデ家の宮殿があった場所で、現在も残っているのは宮殿の塔『トレオン・デ・ロス・アンドラデ』。
ベタンソスのサン・フランシスコ教会
フランシスコ会の修道院として14世紀に建築。残念ながら当時の遺跡は残っていません。